山一抗争
1985〜1989年に山口組と一和会の間で繰り広げられた戦後最大規模の暴力団抗争。死者25名超、事件70件以上。
概要
山一抗争(やまいちこうそう)は、1985年1月から1989年3月にかけて、山口組(四代目・後に五代目体制)と、山口組から分裂した**一和会(いちわかい)**の間で繰り広げられた大規模な暴力団抗争である。「山(山口組)」と「一(一和会)」の頭文字をとって「山一抗争」と呼ばれる。
死者約25名、負傷者70名以上、発砲・爆発物使用などの事件70件超という被害規模は戦後最大とされ、一般市民への被害も生じた。この抗争の衝撃が、1992年の**暴対法(暴力団員による不当な行為の防止等に関する法律)**制定を後押ししたとも言われる。
背景
三代目・田岡一雄の死去
1981年7月、三代目山口組組長・田岡一雄が死去。田岡という強力な求心力を失った山口組では、四代目後継をめぐって内部で大きな亀裂が生じた。
派閥対立
若頭・山本健一(通称「山健」)が次期組長として期待されたが、山本は体調不良などを理由に固辞。組内は「竹中正久支持派」と「山本広支持派」の二大派閥に分かれた。
1984年7月、竹中正久が四代目組長に就任。これに不服とした山本広らが山口組を離脱し、同年中に一和会を結成した。
抗争の開始
竹中正久の暗殺(1985年1月26日)
1985年1月26日夜、大阪府吹田市江坂町の愛人宅マンション前で竹中正久が一和会メンバーの凶弾に倒れた。翌27日に死亡。同時に側近の幹部も狙われた。この事件が山口組と一和会の全面抗争の引き金となった。
抗争の経過
1985年
竹中暗殺を受け、山口組は即座に一和会への報復行動を開始。大阪・神戸・京都を中心に双方の組員が関与する事件が多発した。一般市民が巻き込まれるケースも出始め、社会問題化した。
1986〜1987年
抗争は全国各地に飛び火。東京・名古屋・広島など主要都市でも事件が発生した。警察は広域暴力団対策を強化し、大規模な一斉取り締まりを実施。双方の幹部や構成員が次々と逮捕された。
1988〜1989年
組織力の差が鮮明となり、一和会の構成員は大幅に減少。1989年3月、山本広が一和会の解散を宣言し、抗争は終結した。
主な事件
| 発生時期 | 概要 |
|---|---|
| 1985年1月26日 | 四代目組長・竹中正久が大阪府吹田市で射殺(27日没) |
| 1985年2月 | 大阪・神戸で一和会幹部が相次ぎ襲撃される |
| 1985年〜 | 発砲・爆発物使用事件が全国各地で頻発 |
| 1986年 | 一般市民が流れ弾の被害を受ける事案が発生 |
| 1989年3月 | 一和会解散、抗争終結 |
被害の規模
| 項目 | 数値 |
|---|---|
| 死者 | 約25名 |
| 負傷者 | 約70名以上 |
| 発砲・爆発事件 | 70件超 |
| 逮捕者 | 数百名 |
社会への影響
暴対法制定への契機
山一抗争の凄惨な実態と市民への被害は、日本社会における暴力団規制の機運を大幅に高めた。1992年3月、暴力団員による不当な行為の防止等に関する法律(暴対法)が施行。これは日本で初めて暴力団を法律上で明確に規制した画期的な立法であり、山一抗争が制定の大きな動因となったと指摘される。
ヤクザ映画・文化への影響
この抗争は多数のノンフィクション書籍・映画・ドキュメンタリーで取り上げられ、「昭和最後の大抗争」として語り継がれている。